あの日の記憶を次世代に伝える ー 阪神・淡路大震災 30年
1995年1月17日午前5時46分、甚大な被害をもたらした阪神・淡路大震災から30年が経過しました。この日は、単なる過去の出来事として記憶されるべきではなく、神戸に本社を置く企業としてどのように復興し、成長を遂げてきたのかを振り返る大切な機会と捉え、今回は体験談をなるべくリアルに伝えています。
当時、私は東京にいて震災を経験していません。そのため、当初は生半可な気持ちと捉えられるのではと編集をすることに躊躇しました。しかし、今回コメントをいただいた山脇さんの言葉にある通り「ワン ワールド」の精神を基に、新たな一歩を踏み出していくたくましい先輩方の強さに心を打たれ、この経験が柔軟性や復活力を持つ企業へと成長した力になっているのではと考えました。
30年という節目を迎え、その後の歩みを振り返るとともに、震災を知らない次世代にも伝えていければと思います。貴重な写真と共に編集を行いましたので、ぜひ最後までお読みください。
(MOVING編集)

皆が会社へのロイヤリティを強く感じていた

取締役(監査等委員) 松沢 直輝
※震災当時は「人事部」に在籍
震災当時、私はポートアイランドに住んでおり、揺れが起きた瞬間の何ともいえない空の色と下から突き上げるような強い衝撃を覚えています。揺れが長く続き、食器棚や冷蔵庫が倒れ、家具が転倒する音が響き渡りました。幼い子供が二人いる家庭にとって、恐怖は特別なもので、子供を守るために、窓から離れ部屋の片隅で声をかけあって、抱き合っていたのを思い出します。
揺れが一旦落ち着いた後、外に出ると、周囲の建物が倒壊していないことへの安心感を得たものの、遠くでは煙が立ち上っていました。その後、会社まで徒歩10分程度でしたので、出社するためにマンションの階段を降り歩き出すと、ポートアイランドは液状化で水びたしになっており、亀裂や陥没がありました。
部署は本社の高層階にありましたが、エレベーターは使えず、階段を使い、まずはオフィスの様子を確認しました。当時人事でしたが、何とか給与の支払いを行わなくてはなりません。データ通信できない状態でしたので、前月までの振込データをもとに2,000人分の振込依頼書を打ち出し、東京店の経理とやり取りし、FAX送信して対応しました。あとから東西の社員の皆さんから感謝の言葉を頂いたことを覚えています。
人間というのは逞しく、お店はもちろんしまり飲食できるものも限られていましたが、エレベーターが使えなければ階段を使い、ポートライナーも止まっていましたが、リュックサックを背負いスニーカーで通勤をしました。ポートアイランドではライフラインが止まり、しばらく水も出ず、会社のトイレも1階に仮設が設けられるなどしていました。寒い時期だったため、皆大変だったと思います。
大変な経験でしたが、ワールドの社員皆の力で、事業の回復も早期に行われ、災害対応も皆「何とかしなきゃ」と気持ちを一つにして頑張った。皆が会社へのロイヤリティを強く感じていたのではないかと思います。
心に刻んだ“ワン ワールド”の精神 大阪南港での合同展示会

ワールドアンバー 企画管理部 山脇 啓歳
※震災当時は「ドンナ ウノ」部に在籍
震災時に私が一番記憶に残っているのは、大阪南港で行われた合同展示会です。神戸店では展示会を開催できない状況だったため、3月に大阪南港のATC(イベント・複合型大型モール )で展示会を実施することになりました。この展示会には、ワールドのすべての卸ブランドが集まり、スタッフも神戸店、東京店、本部のメンバーを含めて総動員。皆が一丸となって取り組んだ結果、とても活気に満ちた展示会となりました。まさに「ワン ワールド」と言える瞬間でした。
来場いただいたお客様をお迎えする際は、各ブランドの垣根を越え、チームとして一緒に展示会場に迎えることができました。このような連携は、私たちにとって非常に貴重な経験でした。
当時、私は「ドンナ ウノ」ブランドの事業支援スタッフとして、大阪に泊まり込んで展示会に努めました。お店からは暖かい励ましの言葉をいただき、その声を支えに受注活動に励みました。ワールドに勤めて42年になりますが、あの時の全社員の結団力は本当に素晴らしかったと、今でもしばしば振り返ります。困難な状況の中で、私たちが一つになった瞬間は、今も私の心に深く刻まれています。


日常のありがたさを痛感

ワールドアンバー 水野 一蔵
※震災当時は「ルイ シャンタン」部に在籍
当時、私は妻と当時幼稚園の長男、二歳の次男とポートアイランドの公団、13階建の1階に住み、ルイ シャンタン部として三宮第一ビルに勤務をしていました。
1月17日早朝、突然突き上げられ体が何度も浮き上がり、何が起こったのか分からず「えっ?なに?なに?」という感じでした。部屋のタンスは全て倒れ、ピアノが部屋の真ん中まで移動していました。棚から落ちたラジオが鳴り出し、神戸で地震が発生し津波の恐れがあるので避難するようにといった内容が流れました。魚釣り用のヘッドライトがありましたので皆で装着し、暗く寒い中マンションの5階ぐらいまで上がり周りを見渡しました。怖いくらい静かで車も人の動きもほとんどありません。30分ほどで固定電話がつながらなくなりました。
7時前だったと思います。神戸市内の実家と会社がどうなっているかを確認するため、ポートアイランドから外に出ようとしたところ道路が水浸しです。当時液状化を知らず、津波で冠水していると思っていました。水深があり車は使えませんから、まず徒歩5分位の本社ビルに向かい、その後勤務地の三宮第一ビルに向かいました。
神戸大橋まで来た時点で大変なことになっていると実感しました。橋の一部が脱落、海にはコンテナがいくつも浮き、長田方面は火事、市内もいたる所から煙があがっています。でも静かで、救急車や消防車のサイレンは何も聞こえませんでした。三宮はガスの匂いとビルが潰れ倒れています。
三宮第一ビルに到着して唖然としました。2階が営業室、3階が展示会場でしたが3階がなくなっていました。数時間後だったら間違いなくあの中に私はいます。隣の第二、第三ビルはもっとひどい状況でした。その時、当たり前の日常のありがたさを痛感し、日々感謝しながら生きていかなければと思いました。
幸い身内で亡くなった人はいなかったものの、震災前に魚釣りに一緒に行っていたワールド社員の方や、子供が通っていた六甲道の幼稚園のお友達や家族が犠牲になったり、家が全壊した方がたくさんいました。今のようにSNSもなく、情報はテレビとラジオのみで、ボランティア組織もなかった当時、被害が大きかった所は大変だったと思います。
自分は自衛隊の人に公園で頭を洗ってもらったり、風呂のお世話になり大変ありがたかった記憶があります。





揺れた朝の記憶 私の震災体験

アルカスインターナショナル シューラルー 岡本 由佳
※震災当時は「ルイ シャンタン」部に在籍
地震発生時、六甲道に妹と一緒に住んでいました。
その日の朝は、ドーンという大きな音と共に本当に激しい揺れが続きました。私の住んでいたマンションは無事でしたが、周囲の建物が次々と倒れていく音が衝撃的で今も耳に残っています。ガスの臭いもあり、爆弾が落ちたかのような景色でした。
揺れが収まった後に外に出ましたが、冬の早朝はまだ真っ暗でした。多くの人々が急いで避難を始めており、近くのバスの車庫に向かいました。その場所は、安全な避難所として車両を開放されていたからです。バスの中でしばらく過ごしましたが、夜は非常に寒く、余震の不安もありました。車内で流れるラジオの情報で徐々に地震の規模の大きさを感じました。
地震直後の混乱の中、何度か家に荷物を取りに戻りました。とにかく混乱の中で、たとえばコンビニはレジが機能しておらず店側が決めた一律の値段での購入となりました。数日六甲道で過ごしながら、震源と聞いていた淡路島の実家(洲本市)が心配でたまりませんでした。携帯電話は当時ありませんから、公衆電話には長蛇の列ができており、何度も待ってようやく家族と連絡が取れたとき、無事であることが確認できて本当に安心しました。
その後、阪急電車が一部動き始めたと聞き、すでに結婚が決まっていた主人、妹と、主人の実家がある彦根に一旦お世話になることになりました。ときどき線路上を歩き西宮北口までたどり着き、阪急電車で梅田まで向かい、JRで彦根へと移動。途中梅田では普段と変わらない日常が広がっていて、そのギャップに驚きました。周りは整った身だしなみに対し、ノーメイクに埃だらけのスニーカー、大きなリュックサックを背負った震災ルック。私たちだけまるで戦時下の様でした。
しばらくして、自宅に水道が開通するまでは実家から神戸本社に通うことにしました。当時は明石海峡大橋が開通前。フェリーを使い毎日片道4時間半以上かかりましたが当時は皆がその様な状況だったと思います。営業アシスタントとして働く中で、特にATCでの展示会中は専門店様からの問い合わせも多く、本当に忙しい日々だったことを思い出します。
今振り返ると、東京店の方々の応援もありながら、みんなで協力して乗り越えたことに感謝しています。復興の道のりは決して容易ではありませんでしたが、その中には私たちの成長の証があると信じています。そして、30年前を知らない世代にも、この経験を少しでも伝えていければと思っています。

震災経験の教訓を次の世代へ

ワールド 企画運営部 総務課 松元 伸二
※震災当時は「管理本部」に在籍
1995年1月17日、「ゴーーーッ」という地鳴りで目が覚め、その後、約40秒間続く激しい揺れを体験しました。当時、私はコンクリート造りの5階建ての公団に住んでいました。揺れの後の暗闇の中、手探りで玄関に向かい車の中に避難し、日の出の時刻を迎えました。
車内でラジオやポータブルテレビを使いながら、地震後の状況を把握していきました。居住地域のライフラインには大きな損傷がなかったようで、電気とガスは同日に使用できました。しかし、市街地は壊滅的で、同じ神戸市内であっても住む地域によって状況が大きく異なることに驚かされました。
震災翌日から東京店の同僚たちが手分けして皆の安否確認の電話をかけてくれました。安全な避難場所への退避や出社待機の指示を受けたことで、安心感を得ることができました。地震発生から約10日後、交通機関が徐々に再開されると、本社ビルへの出社指示があり、地下鉄新神戸駅と谷上間の区間は運転していたため、新神戸からポートアイランドまで約45分の徒歩通勤が始まりました。
神戸本社までの道中は、神戸大橋のつなぎ目に50センチ以上の段差、崩れた護岸、液状化の影響による埃や泥の道に直面しました。それでも、何とか通勤を続けました。本社では、ビル自体は岩盤まで杭が届いていたため沈下はありませんでしたが、周辺は液状化の影響で約60センチ沈下しました。市民広場など周囲には新たな段差ができていました。
出社初期のビルの状況は厳しく、階段を使っての移動を強いられました。断水が続き、トイレが使えない状態が続いたため、一階の駐車場に仮設トイレが設置されました。その後、プールから水をバケツで汲み取り、それを使ってトイレを利用できるようにしました。各フロアのキャビネットはほぼ全倒で、書類整理が急務となりました。
総務の皆が設備の確認や仮設トイレの手配を行い、人事が1月の給与支払いに奔走したことを後に知りましたが、震災の混乱の中、とにかく皆の力で日常を取り戻すための努力が続けられていました。
なお私は、2005年3月発生の福岡西方沖地震の際、福岡フラクサスに勤務をしていたため、人生の中で2度大きな地震に遭遇しています。阪神・淡路大震災の教訓をもとに、数日分の水・食糧備蓄をしていたことで地震発生初期を不安なく過ごすことができました。日頃の備えがいかに大切かを痛感した出来事でした。同時にこうした経験を次世代に伝えていくことも、私たちの大切な使命であると感じています。




未知の体験の中で

ワールド IR・グループコミュニケーション室 中村 香代子
※震災当時は「国際統括部」に在籍
当日は、実家の宝塚にいました。ゴーっという地鳴りとともに、激しい揺れで目が覚めました。
外に出ると、隣の家の大きな石垣がすべて崩れて、跡形もなくなっていたことや、辺りが土埃で白く煙っていたことを思い出します。すぐに部長に電話をして無事を報告した後、しばらく自宅の片づけをしていましたが、薄暗くなった頃、親せきからの一本の電話で、自宅エリアに退去命令が出ていることを知りました。
TVでは、町名などのテロップが流れていたようですが、電気も止まっている中、誰も知り得ませんでした。電話もこの連絡を最後に、止まってしまいました。退去理由は、町内にガスが充満しており、いつ爆発してもおかしくない状態とのことで、それ以降、自宅エリアに立ち入りできなくなってしまいました。
慌てて荷物をまとめ避難所へ行くと、まもなくして大きなパン箱を持った女性が数名入ってこられて、一人ずつ大きなおにぎりが配られました。こんな大変な時にどうやって手配して下さったのか。驚きとともに、とてもありがたくいただきました。深夜になって、体育館に1台のテレビが運び込まれ、ニュースで三宮のビルが崩れている様子や、真っ暗な中、長田が火の海になっている映像が映し出されると、うわっ~という大きなどよめきが起きました。皆が初めて、ことの重大さを知った瞬間だったと思います。
余震が続く中、就寝の時間になると「天井が落ちる可能性もあるが、軽量なので心配しないで欲しい」というアナウンスがあり、帽子を深くかぶって怯えながら横になりました。数日たって、昼間だけは自宅に帰ってもよいことになり、昼間は片付け、夜は避難所で過ごしました。その後、避難所に電話が2台設置され、上司と初めて話すことができた時、「やっと声が聞けたなぁ。ホッとしたわ」と言ってもらって、とても嬉しかったことを思い出します。
1週間たって、ようやく終日自宅へ戻ることが許されましたが、最寄り駅の電車は、当然動いておらず、神戸は、海側から山に向かってほぼ平行に、阪神、JR、阪急電車が通っていますが、毎日、それぞれが動いている区間を貼り紙などで探しながら、3つの沿線を渡り歩き、途切れているところは全て徒歩で、片道4~5時間ほどかけて通いました。
交通機関の運行は日ごとに変わりましたが、帰りは三宮から様々な行先のバスが不定期に出ることもあり、恐ろしいほどの人混みの中、同期と自宅方面行きを探しやっとの思いで最後尾につくと、「6時間待ちですが、大丈夫ですか?」と言われ、気がつくと二人とも無意識に涙がこぼれていました。
その後、大阪で完成間近だったATCを借りて、展示会をするということになり、会社への通勤が困難な私と同期は、しばらく手伝いに行くことになりました。大阪に着くと、皆ハイヒール姿でキラキラしている中、当時“震災ルック”といわれた防寒着に帽子、スニーカー、リュックサック姿で、梅田に降り立った時の何とも言えない気持ちは、今でも忘れられません。
その後、本社に戻ってからもしばらく通勤困難は続きましたが、会社で皆に会えることで元気をもらい、頑張れた気がします。あれから30年という長い月日が流れましたが、心の奥深くに刻まれた忘れ得ない記憶です。

同じ震災体験を持つ、ロサンゼルスの子どもたちから神戸の子どもたちに届いた「Love Peace Care」のメッセージと絵柄をワールドがTシャツに。Tシャツは同デザインの絵葉書と復興の息吹を託した花の種とともに、春の選抜高校野球に出場した地元兵庫県の報徳学園、神港学園、育英高校の全生徒にも配布されました。この「Love Peace Care」は東日本大震災のチャリティーTシャツのメッセージにも使われることになります。


30年前を振り返る本特集は、神戸の復興とその背景にある人々の強さを伝え、未来に向けた希望を込めています
震災後、いち早く再開した神戸・三宮センター街やハーバーランドの店舗には、復興の中で暮らす、リュックを背負った女性が顔を紅潮させて来店されたそうです。ファッション企業として、私たちにできることを物語るエピソードのひとつです。社員の必死の努力で業務を再開したワールドですが、三宮の神戸第2、第3ビルの被害をはじめ、震災のダメージは大変大きく、何より大きな損失は大切な社員2名を失ったことでした。ここに改めて黙祷をしたいと思います。当時何が起き、どのような気持ちで皆が立ち向かっていったか、この特集を通してお伝えできればと思います。
◆2月2日(日)まで大丸神戸店ウィンドウ「震災30年展示」に鈴木社長のメッセージが掲示されています。








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